こんにちは、ぶるめいです。
私は現在アルバイトをしながら子育て中の主婦です。こんな私も10年ほど前は正社員としてフルタイムで働いていました。
しかしある朝突然、ベッドから起き上がれなくなってしまいそのまま心療内科に通院ののちに休職となりました。
いまでこそ会社にメンタルヘルスの専門家がいるところも増えるほど、働くということはストレスやプレッシャーを伴うものだと社会的に認められる体制がようやく整ってきました。しかし、私が正社員として働いていた頃、誰に相談していいかわからず毎日仕事に明け暮れていたら、ある日一人でベッドから起き上がれなくなってしまったのです。
新入社員1年目
2011年、東日本大震災で日本中が大混乱の中、希望していた職種とは違うものの、ずっと勉強してきた分野を活かすことが出来るところに就職することが出来ました。入社式も入社後の研修もいつ停電するかわからないような状態の中で何とかおこない、少しずつインフラが落ち着き始めたころ、私も仕事に慣れ、毎日ひたすら仕事に追われていました。
1年目の配属先では、「お局」という言葉は死語かもしれませんがまさにそんな感じの年上の女性に、陰でたくさん悪口を言われたり、サービス残業したり、大変なこともありましたが何とか日々の業務をこなしていました。しかし、どうしても希望していた職種につきたかった私は異動についての希望を上司に話し、晴れて入社2年目で希望の職種の職場へと異動できることになりました。
入社2年目、念願の職場へ
子供のころからずっとやりたかった仕事に就くことが出来て、私はとてもうれしくて、正直浮かれていました。
しかし、まさかのたった2か月で休職になってしまうのです。
詳しいことを話すと身バレしてしまう恐れがあるので話せませんが、仕事に行けなくなった頃の私を客観的に振り返ってみようと思います。
異動してすぐに、引継ぎもあまりなされないままいくつかの担当を持ち、しかも2つの現場を兼務することになりました。仕事量も多く、いっぱいいっぱいでしたが、自分に期待をかけて異動をかけあってくれた上司のメンツをつぶさないためにも、しっかり仕事を覚えよう、迷惑をかけないようにしようと、とにかく毎日必死でした。
新しい職場に異動して数週間後、毎週水曜日、週1日のみ通っていた現場に出勤すると、リーダーポジションの先輩女性Aさんが1人すでに出勤していました。
私「おはようございます」
Aさん「・・・。」
Aさんはまるで聞こえていないかのようにひたすらパソコンの画面を見ています。出勤しているのは私と
Aさんの2人だけ、私と彼女の距離はわずか2、3メートルほどしか離れていなかったので、聞こえなかったということはないはずでした。
そのまま仕方がないので身支度していると、別の先輩の女性Bさんが出勤してきました。
Bさん「おはようございまーす」
Aさん「あ、おはよう~」
そっか、私は無視されているんだなとそこで改めて気づきました。
当時の私はまだ20代前半で入社2年目、経験も浅いのに異動してきたのがおそらく気にくわなかったのでしょう。その後も毎週水曜日、その現場に出勤するたびに私の挨拶はことごとく無視されました。仕事で必要最低限の返事はしてくれますが、提出した書類が先輩たちの意向にそぐわないとすごく怒られました。
AさんとBさんと私の3人で向き合ったそれぞれのデスクで昼食をとるときは本当に苦痛で、私の存在はまるでないものかのようにAさんとBさんは楽しそうにおしゃべりをしながらお弁当を食べます。私は下を向いたまま、とりとめもなくデスクにあるプリントをぼんやり眺めながらなんとかやり過ごしました。
週に1日、水曜日が来るのが憂鬱。でもほかの日は彼女たちにに会わなくて済むのだからと自分に言い聞かせていました。ほかの日は幸い人間関係で思い悩むことはなく、ただ日々準備することや覚えることの多さで毎日頭がいっぱいでした。次第に休日でも仕事のことばかり考えて、楽しんだり、リラックスする時間が少なくなっていきました。
5月のある日、その日は水曜日でした。いつものように家を出て、最寄り駅の階段を登ろうとしたその時、急にめまいがしてうまく歩けなくなりました。毎朝駆け上がっている階段が急に途方もない高さに見えて、頭がグラグラしました。何とか階段を上り、電車に乗り、水曜日の現場へ向かおうとすると、今度は心臓がバクバクしてきます。それでも何とか1日の業務を終え家に帰りました。今思うとそれはもう兆しだったのです。
6月の水曜日、朝起きると、体がベッドにぴったりとくっついてしまっているようで、体を起こすことが出来ません。寝たまま、どうしていいかわからず、当時同棲していた彼(現在の夫)に泣きながら話すと、仕事を休むように勧められ、その日は仕事を休みました。
当時私が兼務していた両方の現場の統括をしていた、異動時にもお世話になった上司と連絡を取り、とりあえず明日は出勤できると伝えましたが、上司は半休取っていいから午後からゆっくり出勤してきていいと言ってくれました。
そして次の日いつもより遅めですが、出勤時間に余裕をもって家を出て、バスに乗り、最寄り駅につきました。するとやはり心臓がバクバクしていつもスタスタと駆け上がっている階段が果てしなく続いているように見えました。
変な汗が出てきて、何とかホームまでたどり着きました。電車に乗っても冷や汗が止まらず、気づいたら自分の腕にぎゅっと爪を立てて、なんとか気持ちを落ち着かせようとしていました。心臓はバクバクして、たった15分ほどの乗車時間が永遠に続くように長く感じられました。
「明けない夜はない」が恐怖の言葉
当時の私は、夜が来てやがて朝が来るのが怖くて怖くて、あまり夜に眠ることが出来ませんでした。朝が来ればまたバスに乗り、電車に乗り、職場へ行かなくてはいけない。
今の夫とはもう同棲していたのですが、毎晩毎晩「眠るのが怖い」と泣きじゃくる私をなだめてくれていました。自分も次の日仕事があるから朝早起きしないといけないのに、根気強く私の話を聞いてくれました。
よくドラマや小説で「明けない夜はない」という言葉を聞きますよね。もちろんそれは比喩的な意味で誰かを励ます言葉として使うのですが、この言葉が当時の私にはとにかく苦痛でした。
頭の中が混沌としていて、文字通りに意味をとらえてしまっていたのかもしれません。でも、この言葉が、前向きなこの言葉が大嫌いでした。
上司に相談して休職へ
当時の上司は私に厳しい言葉をかけることもなく一緒にどうしたらよいか一生懸命考えてくれました。
でも、私の心はついに限界を迎え、希死念慮まで出てきてこれはやばいなと思ったところで両親から病院へ行くように勧められました。当時仲良くしていた大学時代の先輩が教えてくれた心療内科が実家からすぐのところにあったのでそのまま荷物をまとめて実家へ行ってどうにかして心療内科へ行くことになりました。
それまで私は心療内科というのは私が行くようなところではない、もっと私よりずっとつらい思いをしたりショックな出来事があった人たちが何とかその傷を少しでも癒そうと通う場所だと思っていました。
自分には関係のない場所。もしそこに一度足を踏み込んでしまったら二度と元の自分には戻れないような恐怖がありました。
そこで問診票を記入し診察を受け、「適応障害と軽度のうつ」とお医者さんに言われたときは、それまで恐怖や不安が渦巻いていた自分の心が嘘みたいに静まり返りました。お医者さんから3か月は休職するように伝えられて、「あ、私休めるんだ」と安堵しました。
同時に、私の中で大切に守ってきたもの、積み上げてきたもの、ようやくかなった夢がもうここで終わってしまうんだという絶望感にさいなまれました。
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